賽の河原で待ち合わせ

死ぬまで、女をやる予定

雨宮まみさんについて

花のゴールデンウィーク、わたしは接客業のため関係なく仕事である。

オットなんて怒涛の12連勤中で、ゴールデンとは程遠い。

今日はわたしは休みだが、どうせどこも混んでいるんだろうし明日も仕事だし、

オットもいないので特に出かける気にもなれず、自宅でひとり干物を焼いて、ビールを飲んでいた。

そうしたら突然、雨宮まみさんについて思い出してしまった。

酔いも回ったこともあって、そのままぽろぽろと泣けてきた。

雨宮さんの訃報を聞いてから、何度目だろうか、彼女がこの世にいないことにショックを覚えて泣いたのは。

ちゃんと書ける気は全くしないけれど、勢いで、少し書きます。

自己満足の文章ですが、すみません。

 

 

会ったこともない、ただ一度だけ下北沢の本屋さんで遠くから眺めただけのひとだ。

色の白い、綺麗な人だった。

彼女の書いたものをすべて読めてすらいないが、これから増えることがないのだからと、焦ることないと思い、今も読めていない。

 

わたしも、彼女の文章を読んで、頭を殴られたような衝撃を覚えたたくさんのひとたちのうちの一人だ。

本当にショックだった。

死んじゃダメだろう、嘘だろう、あなたは希望だったんだぞと、会ったこともない彼女に抗議したくなるような思いを、正直今も抱えている。

あんなに人間の弱さや痛みやどうしようもない格好悪いところをすべてありのまま、そうだねって認めて、それでもなお「こうありたい」という姿を見せてくれていた。

「こうありたい」という自分を持つことは、強さだ。

林真理子女史を髣髴とさせるが、野心とも呼べる。

 

彼女の発信する、彼女の生き方や思考は、とにかくすごくキラキラしていたし、

文章は繊細かつわかりやすく、語彙力がなくて自分に絶望したくなるが、とにかく凄かった。凄まじいなと思った。これが才能なのかと、軽率に思った。

彼女のことは一度でいいから見に行かなければならないと思い、下北沢の本屋さんで開催されたイベントにひとりで参加した。

しゃべっている姿を見て、感動したのにも関わらず、わたしは途中で帰ってしまった。

会場を出た。

理由はうまく言えないけれど、とにかくいたたまれなかったのだ。彼女の光がまぶしすぎたからというのが、最も適切かもしれない。

 

 

 

生きていてほしかったけれど、生きられなかったんだろうなと、わたしなんかがわかると言ってしまうことがおこがましいことだというのは承知の上でいわせてもらえば、わかるのです。

それはきっと、雨宮まみさんの書いたものを好きだと感じていた多くのひとたちが感じていることではないだろうか。

あんな擦り切れるような身を削るものを書いていて、平気なひとではないとは知っていました。そうですよね、平気ではない人だからあれを書けたんだろうなって、思うんですよ。

 

もう、本当にとりとめもないことだけど、とにかく何か書きたかったので、書きました。

雨宮さん、あなたがいなくなった世界で、今日も生きています。

あなたを愛したたくさんのひとが、今日も生きています。

わたしも、生きています。

 

雨宮さん、雨宮さん、雨宮さん、雨宮さんに生きていてほしかったと、今でも思ってしまいます。

本当にただの日記

日記を書きます。

 

 

日曜日。起きるとオットはすでに起床しており、ブログを更新したとのこと。ベッドマットレスを買いに行く予定だったので、身支度を整え、お出掛け。オットが自宅の出発予定時刻を明確に提示してくれることに感激する。「11時半出発です」計画的でわかりやすくて、素晴らしい。VERY妻っぽい服装。インドカレーランチ。隣の席のアパレル店員の会話と男子大学生の会話に気を取られる。三種類のカレーのうち、ホウレンソウのカレーが予想外な味で美味しかった。ナンが多く、残す。ホワイトデニムは無傷。化粧品売り場で、クレンジングだけ買おうと思っていたはずが、オットがトイレに行っていたので、ついつい口紅をタッチアップ。青味がかったけたたましいピンク色が、最近の「けたたましいピンク色の何かが欲しい!」という欲求とピタリと一致したため、勢いで購入。服や靴を買うよりずっと経済的であり、自画自賛。気持ちが華やぐ。ベッドマットレスも無事購入。結婚指輪が大きいため、ストッパーとして使える細い細いリングを買ってもらう。ホワイトデーである。嬉しい。それなのにその後、プラプラと歩いているうちに突然オットに因縁をつけてしまう。とりあえず怒るものの、己の左手の薬指が可愛いのを見て、機嫌を直すことを決める。オットからヤクザだと非難される。ヤクザであることを認める。スーパーに寄って餃子の具材を買い揃え、帰宅。帰宅後原稿を直す。気づけば2時間経っていたので無理やりひと段落させ、餃子を作る。とりあえずチューハイの缶をあけるところからスタート。2人でキッチンに立ち、交互に具材を刻んだ。包み方は断然、オットほうが丁寧で上手い。わたしの包み方は良く言えばダイナミック。悪く言えば雑。普通に言えば具が多い。具が足りなくなるとボヤくオットを尻目に相変わらずダイナミックに包んでいたら、皮が2枚余った。オットが嘆くので、クリームチーズでも包めばと提案。焼く。最高の離婚を観ながら、ハイボールと餃子。最高の離婚は、綾野剛さんがドンドン気持ち悪くなる。オットの眉間に白髪の眉毛を見つけるものの抜き損ねた。50個完食。米粉入りの皮の方が美味しかった。お風呂の入浴剤は奥飛騨。「岐阜へ行こう」とオットが言った。終わり。

週末に、大好きな友人の結婚式がある

わたしは、彼女の23歳の時の失恋も25歳の時の失恋も、とっても近くで見てきた。うーん、まあ他の失恋は割愛ノーカウントでいいよね。

 

共にああでもないこうでもないと、相手の男のことを言葉を尽くして罵って、共に真新しい傷を見て泣いて、共に治りかけた傷が膿んだときにも泣いて、共に百万の合コンへ赴いた。

二人で東京大神宮で願掛けもしたし、占いにも行ったし、カラオケで広瀬香美を熱唱したり、お見合いの反省会もしたね。散々飲んで食べて、一緒にたくさんたくさん泣いて笑ったね。

 

恋の死を、その痛みを、歯食いしばって耐えて耐えて乗り越えている姿も見てきた。

幸せになろう!って一生懸命な姿も、ちゃんと見てきた。

 

わたしは、幸せなときに側にいる友達が本当に大切な友達だと思ってる。

辛いときに側にいるのは、そんなのは当たり前のことだから。どんなに力になってあげたくても、側にいることしかできなかったけど、でもわたしが辛いときに貴女が側にいてくれて救われたように、少しでも支えになれていたらと思う。

 

苗字が変わった貴女は、恥ずかしそうにはにかんでいてとてもとても可愛かった。左手の薬指のダイヤモンドは夏の夜の金星のように煌めいて、まるで貴女と貴女の愛する人との未来を照らしているようだった。愛する人を見つめる貴女は、優しくて咲きほころぶ花のように可憐で、今まで見た中で一番綺麗だった。

 

大好きな人の奥さんになったんだね。よかったね。本当に本当によかったね。

 

ウエディングドレス姿を思い浮かべるだけで涙がこみ上げてきて、今から式が不安だけれど、きっとお姫様みたいに可愛いんだろうな。お祝いできることが、すごくすごく嬉しいです。

 

 

 

やれやれ

人生に正解なんかない。幸せの基準も不幸の基準も人それぞれだと、

そんな当たり前なことは頭ではわかっている。

わかっていても、Facebookにあふれる、

ハワイのきらめく海をバックに美しくほほ笑むウエディングドレス姿の大学の同級生や、

幼稚園の入園式でベージュのスーツなんか着ちゃってる高校の同級生たちの人生と、

自分のそれをなんとなく比べてしまう。

 

他人の幸せを心から喜ぶ気持ちは、もちろんある。

それなのに親友の左手の薬指でダイヤモンドがきらめくたびに、

心の中で得体のしれない不安が、コトンと音を立てる。

 

何が怖いって、何も保証がないから怖いのだ。

人生の先行きの不安が原因で、一人ベッドで泣く夜が来るなんて知らなかった。

 

 

咳をしても一人

泣いても叫んでも一人

セフレがいてもデートの相手がいても、一人

 

寂しさはみるみる胸の内に膨らんで夜を飲み込み、

こんなはずじゃなかったと昔の恋愛を並べてみたり、自分を責めてみたりする。

あるいは、安易な安心に手を染めて、寂しさを誤魔化そうとする。

デートの相手がいるから、ハイスぺイケメンに言い寄られているから、ハイスぺイケメンとセックスできてるから、まだ大丈夫だと己を騙そうとする。

クズな彼氏でも、別れられなくて自ら不幸の水に浸かってしまう。

 

 

でも、寂しさを誤魔化すことは愚かだ。

 

 

いうなれば、寂しさは包丁だと思う。

いつもキッチンにあるし毎日扱っている調理器具だけど、時に凶器になる。

振り上げて体に突き立ててれば、死に至らせるほど殺傷能力の高い凶器だ。

自分に対しても、誰かに対しても。

 

でもだからと言って、包丁を怖がって料理をしないことがないように、

隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめるように、

二時間ドラマよろしく包丁を持って騒ぎ立てるのはやめて、

おとなしくトマトでも切ろうじゃないかと、わたしは言いたい。

 

人は誰しも寂しい。

だから、それはそんなに恐れることじゃないはずだ。

恋人ができても、結婚しても、子供がいても、寂しい夜はある。

Facebookのポストがすべてじゃないなんて、そんなことはわかってる。

子供のころから寂しさはずっとそばにいたし、これからも死ぬまでそうだろう。

人はみんな寂しい。ずっと寂しい。

だから、寂しいことは極度に恐れなくていい。

だったら、誤魔化すなんて意味ない。

 

不安な夜は泣けばいいし、スクワットしてお風呂に入って、いい匂いのボディーミルクでも塗り込んで、泣き足りなければもう一度泣いて、寝ればいい。

誤魔化さずに、寂しさを認めてあげられたほうが、

己にとっての本当の幸せの輪郭もつかみやすくなると、わたしは思う。

 

かの有名なフレーズを拝借しよう。

寂しさは幸せの対極としてではなく、その一部として存在している。

そういうふうに考えてみるのは、どうだろうか。

 

 

 

恋と物件

いつか、恋人がわたしに「家を選ぶ時の、絶対条件って何?」と何気なく尋ねた。
わたしは“もしかしてプロポーズ!?”と囃し立てたい気持ちをグッと腹の底へと留め、想像を巡らせた。

そして「ベランダがあること」と答えた。彼は拍子抜けした顔で言った。
「いや、絶対に譲れない条件だよ??バストイレ別とかじゃないの??」


そりゃあ、バストイレは別に越したことない。できれば外観と内装もオシャレなほうがいい。デザイナーズ、リノベーション、なんて素敵な響きでしょう。
それから駅からの距離、近くにコンビニが有るか、治安も大事。もちろん日当たりは重要。オートロック、宅配ボックス有、浴室乾燥機付も有ればきっと便利よね…


でも、それら全てをクリアした物件があったとして、しかも家賃も予算内だったとして。
でも、もしもベランダがなかったら…と考える。
もしも全てがクリアされていても、ベランダがなければ、わたしはそこには住みたくないと思う。

では逆にベランダがありさえすれば、何処ででも住めるのかという話になると、もちろんそんなことはないのだけれど。


これは、婚活の条件の話に極めて似ている。

身長170センチ以上、大卒以上、次男、別居、年収安定、35歳まで、バツはイチまで、できれば初婚、スポーツが好きで、親切な人…

挙げたい条件はそりゃあ沢山あるだろう。それらを全部クリアした男性が、自分を好きだと言ってくれている。

銀行員だし、きっと親も安心してくれる。顔だって生理的に無理ってわけじゃないし、優しいし。何よりこの人を逃したらもうわたしを好きだって言ってくれる人なんてあらわれないかもしれない。
これを断るなんて、わたし身の程知らずだよね??もう29歳、若くないし…

でも、でも、でも、でも、繋がれた手になんとなく違和感がある。
一緒にいて、楽しくないというより、苦痛に近い。

何がダメってわけじゃない。変な性壁もなさそうだし、DVも浮気も借金もなさそう。何が文句あるのって言われたら、文句ってほど何かがあるわけじゃない。




ある程度の年齢を重ねれば、自ずと気づくことだが、全てが理想通りのピッタリあう相手なんて妄想の中にしか存在しない。

だから、幸せになるには、そもそも覚悟が必要です。

向き合っていって、すり合わせていって、手を取り合って、決してあきらめない。そうやって幸せになるぞっていう覚悟。そうして、わたしが幸せになることは、相手を幸せにするということ。

それを固められないならそれはもう、アウトだと思うんですよ。
ベランダがないのよ。

わたしは晴れた日に、思い切りお布団をベランダで干したいの。
そういう日々を重ねて生きたいの。
雨で濡れたベランダを睨む日もあるだろうけど。


ただ、わたしが注意してほしいのは、誰かと比べてしまって恋に踏み出せない場合。
やっぱり元カレが良かった、付き合えなかったけどあの人が良かったなど。
それはまだちゃんと向き合ってないだけかもしれないから、早合点しないでほしい。
そのベランダは偽物です。妄想のベランダ。妄想の中にしか存在しない。


でもそうじゃないなら、一対一で向き合ってやっぱり無理なら、自分を殺しても恋なんか出来ないと思う。

幸せになる覚悟が出来てるなら、
なんなら、ベランダから飛び降りることだってあるのよ。

バターケースとわたし

ずっと昔から憧れているものがある。
これである。





別にとりたてて高価なものではないし、買おうと思えばいつでも買える。
それはわかっている。



amazonでポチれば、明日には手元に届くであろう。
便利な現代の東京を生きている。
それでもわたしはまだ、それを手に入れられない。



思い起こせば18歳の頃だ。
バターケースという存在を知った。
大袈裟かもしれないが、それまで確かにそれはホテルや喫茶店での食事の時にしか見たことがなかった。
あるいは、テレビや漫画や映画の中にしかなかった。

銀製のものや白い陶器など、あれら可憐な佇まいのバターケースは、わたしにとって非日常、あるいはおとぎ話の宝石箱のような非現実的で、触ったら崩れそうなものだと思っていた。

けして現実的ではなかった。
だから、知らなかった。



幼い頃から育った我が家には、それはなかった。
バターの脂肪分を気にする母が、生協のマーガリンを愛用していたからという単純な理由だと思う。
プラスチックの何とも世俗的なマーガリンが、冷蔵庫のなかにふてぶてしく存在していた。それは本当に可愛くなかった。


さらに言えば、わたしはマーガリンよりもバターの味と風味が好きだった。
もう18歳になったのだから、わたしは己の好みで、マーガリンよりもバターを選んでいいのだ。

とても厳しい家で育ったためか、自分から積極的に好みを選択することに不慣れなわたしは、バターを買うという行為ですら、すごく大人になった気がした。
選択の自由。わたしはバターを買っても良い。
当たり前である。


大学進学を機に一人暮らしを始め、世の中の大学進学を機に一人暮らしを始めた学生と同じように、わたしも無印良品へ行った。


その日、バターケースと出会った。それは確か、すべて白い陶器だった。
なんとも可憐な佇まいだった。
そして、優雅さと贅沢を湛えていた。
それこそが、わたしが18歳で初めて触れた“ていねいな暮らし感”だった。



バターをわざわざケースに移し替えて使うのだ。
お料理のときも、すごく手間がかかるだろう。急いでいるとき、厄介だろう。
わざわざケースを取り出して、蓋を開けてバターをカットして使うなんて。
汚れたらきちんと拭き取り、冷蔵庫に戻す。バターを使い終わるまでにも定期的に洗ったりするのだろうか。
そもそもあの量のバターを常備して、悪くならないうちに使い切るのは、一人暮らしでは無理があるし、二人以上で暮らしていたとしても、おそらく毎日のようにバターを使うべきだ。
きっと主に朝食だろう。




“生きる”ことと“暮らす”ことの雲泥の差を、無印良品のキッチン小物売り場で見つけ、立ち尽くしたのが10年余り前。
両手のなかに一度収めてはみたが、とてもじゃないけど、今は買えないと棚に戻した。



その後、バターケースに憧れすぎて色々と探した結果、
野田琺瑯のバターケースが、一番それらしくて、しっくりきた。
それ以来ずっと、憧れ、恋焦がれ続けている。


木の箱のものや、ガラスケースや、もっと実用性の高いものも、すべて陶器でやたらラブリーなものもあったけど、
やっぱりこれが、ずぼらなわたしにとって
“最も現実的で、洗練された見た目の”
バターケースだと思っている。
現実的であることは、素晴らしい。



わたしはいまだに、切れてるタイプの小さいバターを愛用しているし、雪印の箱のまま冷蔵庫に突っ込んで使っている。
いまだに一人暮らしで、いまだに、ろくすっぽまともな朝食をとる習慣すらついていない。



わたしが憧れているのは、バターケースに象徴される、ていねいな暮らしである。しかも、一人ではない。
穏やかな朝食という日常。
もっと言えばすこしのオシャレさ。
憧れる。憧れまくる。




近所のパン屋で、一斤の食パン、あるいは一本のバゲットを休日に買い込む。
それをバルミューダのトースターでカリッと焼いて、
野田琺瑯のバターケースから取り出したバターをたっぷり塗る。
それから薄く蜂蜜を垂らしたものを、バリバリ言わせながら頬張るのだ。
うん、美味しい。
それから、愛するひとが淹れてくれたコーヒーを飲む。香りが広がる。
これが幸福というもの。
バターケースが収めるのは、バターだけではない。
幸福を現実的な形に収めたもの。
ていねいな暮らしの塊。





もう29歳だというのに、きっとその日がくるまで、わたしはバターケースが買えない。

ブログを書くということ

今書かなければ、もう二度と書きたくないと言って、二度と書くことがないであろう己の姿が見えるので、
箱詰めの地下鉄に揺られながら、今必死にスマホをいじっている。


筋トレをしている恋人を見るのが好きだ。
苦痛に顔を歪ませ、普段お行儀よく綺麗に配置されているはずの目や鼻や口が、元気いっぱいに散り散りになる。
軽やかに息を乱し、言葉にならない淡い喘ぎ声を上げる。最高にキュートだ。

これだけ聞くと、わたしがただのサディスティックな趣味な女のようだが、別にそうではない。
なぜなら筋トレは、誰かに強制されたわけでもなく、彼自身が自ら望んで行ってることだからである。何らかの他者からの介入が認められる苦しみを受け、辛がる様を喜ぶのが、悪趣味なサディスティックであろう。


自分で自分を痛めつける様は、一見ただただ愚かに見えるが、しかし実際は同時に己のやりたいことを叶えている。
今現在は小さな筋肉を、鍛えることによって大きくするということ。今はないのだから、プルプルと震える。苦しい。必死。ああなんて非力。

この少しの滑稽さと、苦しくてもやりたいことを遂行する強さとまじめさが、懸命な様をよりキュートに見せる。
わたしは苦しいことが苦手なので、恋人のそんなところにぎゅんと惹かれるのだ。



ブログを書くのはそれに似ているな、と思った。
ずっとずっと長い文章を書いてみたいと思っていたはずなのに、いざ書いてみるとそれはそれは気持ちが悪くて、顔が歪むほど苦しいものだ。
頭の中にうっすらあったはずのパーツを、結論の枠組みにたどり着けることも、順序だてて組み合わせることすらままならない。何にも吐き出せねえ。
これは困った。
まさに、自ら望んで行った行為に苦しんで、実に愚かなかんじが逆にキュート☆という、わたしの嫌いな筋トレそのものではないか。


わたしは苦しいことが嫌いであるから、筋トレをするのももちろん大嫌いである。
そんなわたしが息を切らして、腹筋20回に取り組む様を見ると、恋人はとても喜ぶ。キュートだと笑う。
そりゃそうだろうよ。



そんなわけでブログを書いていける自信は全くないが、こんな非力なわたしのキュートな筋トレに、今後も微笑みながらお付き合い頂けたら大変幸いである。