賽の河原で待ち合わせ

死ぬまで、女をやる予定

バターケースとわたし

ずっと昔から憧れているものがある。
これである。





別にとりたてて高価なものではないし、買おうと思えばいつでも買える。
それはわかっている。



amazonでポチれば、明日には手元に届くであろう。
便利な現代の東京を生きている。
それでもわたしはまだ、それを手に入れられない。



思い起こせば18歳の頃だ。
バターケースという存在を知った。
大袈裟かもしれないが、それまで確かにそれはホテルや喫茶店での食事の時にしか見たことがなかった。
あるいは、テレビや漫画や映画の中にしかなかった。

銀製のものや白い陶器など、あれら可憐な佇まいのバターケースは、わたしにとって非日常、あるいはおとぎ話の宝石箱のような非現実的で、触ったら崩れそうなものだと思っていた。

けして現実的ではなかった。
だから、知らなかった。



幼い頃から育った我が家には、それはなかった。
バターの脂肪分を気にする母が、生協のマーガリンを愛用していたからという単純な理由だと思う。
プラスチックの何とも世俗的なマーガリンが、冷蔵庫のなかにふてぶてしく存在していた。それは本当に可愛くなかった。


さらに言えば、わたしはマーガリンよりもバターの味と風味が好きだった。
もう18歳になったのだから、わたしは己の好みで、マーガリンよりもバターを選んでいいのだ。

とても厳しい家で育ったためか、自分から積極的に好みを選択することに不慣れなわたしは、バターを買うという行為ですら、すごく大人になった気がした。
選択の自由。わたしはバターを買っても良い。
当たり前である。


大学進学を機に一人暮らしを始め、世の中の大学進学を機に一人暮らしを始めた学生と同じように、わたしも無印良品へ行った。


その日、バターケースと出会った。それは確か、すべて白い陶器だった。
なんとも可憐な佇まいだった。
そして、優雅さと贅沢を湛えていた。
それこそが、わたしが18歳で初めて触れた“ていねいな暮らし感”だった。



バターをわざわざケースに移し替えて使うのだ。
お料理のときも、すごく手間がかかるだろう。急いでいるとき、厄介だろう。
わざわざケースを取り出して、蓋を開けてバターをカットして使うなんて。
汚れたらきちんと拭き取り、冷蔵庫に戻す。バターを使い終わるまでにも定期的に洗ったりするのだろうか。
そもそもあの量のバターを常備して、悪くならないうちに使い切るのは、一人暮らしでは無理があるし、二人以上で暮らしていたとしても、おそらく毎日のようにバターを使うべきだ。
きっと主に朝食だろう。




“生きる”ことと“暮らす”ことの雲泥の差を、無印良品のキッチン小物売り場で見つけ、立ち尽くしたのが10年余り前。
両手のなかに一度収めてはみたが、とてもじゃないけど、今は買えないと棚に戻した。



その後、バターケースに憧れすぎて色々と探した結果、
野田琺瑯のバターケースが、一番それらしくて、しっくりきた。
それ以来ずっと、憧れ、恋焦がれ続けている。


木の箱のものや、ガラスケースや、もっと実用性の高いものも、すべて陶器でやたらラブリーなものもあったけど、
やっぱりこれが、ずぼらなわたしにとって
“最も現実的で、洗練された見た目の”
バターケースだと思っている。
現実的であることは、素晴らしい。



わたしはいまだに、切れてるタイプの小さいバターを愛用しているし、雪印の箱のまま冷蔵庫に突っ込んで使っている。
いまだに一人暮らしで、いまだに、ろくすっぽまともな朝食をとる習慣すらついていない。



わたしが憧れているのは、バターケースに象徴される、ていねいな暮らしである。しかも、一人ではない。
穏やかな朝食という日常。
もっと言えばすこしのオシャレさ。
憧れる。憧れまくる。




近所のパン屋で、一斤の食パン、あるいは一本のバゲットを休日に買い込む。
それをバルミューダのトースターでカリッと焼いて、
野田琺瑯のバターケースから取り出したバターをたっぷり塗る。
それから薄く蜂蜜を垂らしたものを、バリバリ言わせながら頬張るのだ。
うん、美味しい。
それから、愛するひとが淹れてくれたコーヒーを飲む。香りが広がる。
これが幸福というもの。
バターケースが収めるのは、バターだけではない。
幸福を現実的な形に収めたもの。
ていねいな暮らしの塊。





もう29歳だというのに、きっとその日がくるまで、わたしはバターケースが買えない。