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賽の河原で待ち合わせ

死ぬまで、女をやる予定

やれやれ

人生に正解なんかない。幸せの基準も不幸の基準も人それぞれだと、

そんな当たり前なことは頭ではわかっている。

わかっていても、Facebookにあふれる、

ハワイのきらめく海をバックに美しくほほ笑むウエディングドレス姿の大学の同級生や、

幼稚園の入園式でベージュのスーツなんか着ちゃってる高校の同級生たちの人生と、

自分のそれをなんとなく比べてしまう。

 

他人の幸せを心から喜ぶ気持ちは、もちろんある。

それなのに親友の左手の薬指でダイヤモンドがきらめくたびに、

心の中で得体のしれない不安が、コトンと音を立てる。

 

何が怖いって、何も保証がないから怖いのだ。

人生の先行きの不安が原因で、一人ベッドで泣く夜が来るなんて知らなかった。

 

 

咳をしても一人

泣いても叫んでも一人

セフレがいてもデートの相手がいても、一人

 

寂しさはみるみる胸の内に膨らんで夜を飲み込み、

こんなはずじゃなかったと昔の恋愛を並べてみたり、自分を責めてみたりする。

あるいは、安易な安心に手を染めて、寂しさを誤魔化そうとする。

デートの相手がいるから、ハイスぺイケメンに言い寄られているから、ハイスぺイケメンとセックスできてるから、まだ大丈夫だと己を騙そうとする。

クズな彼氏でも、別れられなくて自ら不幸の水に浸かってしまう。

 

 

でも、寂しさを誤魔化すことは愚かだ。

 

 

いうなれば、寂しさは包丁だと思う。

いつもキッチンにあるし毎日扱っている調理器具だけど、時に凶器になる。

振り上げて体に突き立ててれば、死に至らせるほど殺傷能力の高い凶器だ。

自分に対しても、誰かに対しても。

 

でもだからと言って、包丁を怖がって料理をしないことがないように、

隠したナイフが似合わない僕をおどけた歌でなぐさめるように、

二時間ドラマよろしく包丁を持って騒ぎ立てるのはやめて、

おとなしくトマトでも切ろうじゃないかと、わたしは言いたい。

 

人は誰しも寂しい。

だから、それはそんなに恐れることじゃないはずだ。

恋人ができても、結婚しても、子供がいても、寂しい夜はある。

Facebookのポストがすべてじゃないなんて、そんなことはわかってる。

子供のころから寂しさはずっとそばにいたし、これからも死ぬまでそうだろう。

人はみんな寂しい。ずっと寂しい。

だから、寂しいことは極度に恐れなくていい。

だったら、誤魔化すなんて意味ない。

 

不安な夜は泣けばいいし、スクワットしてお風呂に入って、いい匂いのボディーミルクでも塗り込んで、泣き足りなければもう一度泣いて、寝ればいい。

誤魔化さずに、寂しさを認めてあげられたほうが、

己にとっての本当の幸せの輪郭もつかみやすくなると、わたしは思う。

 

かの有名なフレーズを拝借しよう。

寂しさは幸せの対極としてではなく、その一部として存在している。

そういうふうに考えてみるのは、どうだろうか。